TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

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大日本プロレスプロレス

設立年月日 1994年 12月 21日
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所属選手

現所属選手
旧所属選手
チームスタッフ
旧スタッフ
学生スタッフ
旧学生スタッフ
  • 関本大介

  • グレート小鹿

  • “黒天使”沼澤邪鬼

  • 菊田一美

  • 石川勇希

  • 浜亮太

  • 星野勘九郎

  • 橋本 和樹

  • 谷口裕一

  • 佐藤孝亮

  • 吉野 達彦

  • 橋本 大地

  • 芦野祥太郎

  • 森廣祐基

  • フランク篤

  • 兵頭彰

  • 野村卓矢

  • 中之上靖文

  • 岡林裕二

  • 伊東竜二

  • アブドーラ・小林

  • 青木優也

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  • 谷口裕一

  • 本間朋晃

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  • グレート小鹿

  • 登坂 栄児

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1994年12月21日、日本プロレス及び全日本プロレス出身のプロレスラーでWAR営業部長としてフロント入りしていた小鹿信也(グレート小鹿)が、10月27日に解散した元NOW所属選手のケンドー・ナガサキらと共に設立。旗揚げ戦には元NOWの谷口裕一、元NOW代表取締役の登坂栄児がレフェリーとして参加した。さらに元UWF所属選手のブルーザー岡本、元東京プロレス所属選手の山川征二(現:山川竜司。山川も元NOW所属選手であったが谷口や登坂と異なり東京プロレスを経由して大日本に移籍している)、生え抜き第1号となった練習生の小林洋輔(現:アブドーラ・小林)が所属選手となり、I.W.A.JAPANや東京プロレスなど他団体の協力を得て陣容を整えた。

 

1995年3月16日、横浜文化体育館で旗揚げ戦を開催。草創期は現在も続くデスマッチ路線のほか、エースのナガサキが「打倒、ヒクソン・グレイシー」を明言して総合格闘技への進出を表明し、団体も「ハラキリ」と称してナガサキのバーリトゥード路線を支えたが、9月26日のジーン・フレージャー戦で36秒でKOされて惨敗を喫したため、バーリトゥード路線は頓挫。デスマッチを中心とした純プロレス路線に方向性を特化していった。

 

草創期のデスマッチアイテムとしてはFMWなどでも行われていた有刺鉄線(当初、大日本では「バラ線」と称していた)がメインであったが、元W★INGプロモーション所属選手のグレート・ポーゴ(ミスター・ポーゴ)、松永光弘、中牧昭二などが参戦する様になってからは過激なデスマッチ路線に拍車がかかり、中牧が所属以前に主戦場としていたI.W.A.JAPANで頻繁に行われていた画鋲やガラスを使用したデスマッチや、松永が考案したサボテン、サソリ、ワニなどを使用した奇抜なデスマッチにファンの注目が集まった。また、若手選手の中から山川や小林、さらにI.W.A.JAPANから移籍した志賀悟(現:シャドウWX)などがデスマッチ路線に投じ、後に中心選手として活躍する素地を築いたと言える。また、社長の小鹿も当時50代後半に差し掛かりながら現役として復帰してデスマッチに出場し、出場時の様々なコスプレも話題になった。

 

1996年には後述する新日本プロレスとの抗争が勃発し、1997年1月4日の新日本の東京ドーム大会では小鹿を筆頭に5名が出場したがそれ以上の進展はなかった。話題作りの一環として7月にはクマの招聘を計画していたものの、動物愛護団体の反発により、頓挫するなど試行錯誤が続いたが、最終的にはデスマッチ路線に再び活路を見出すことになった。この間に中心選手であったナガサキや中牧が大日本を離脱して、デスマッチ路線の陣容は松永、山川、小林、WXらが中心に変わり、新たにデビューした本間朋晃や葛西純が参入し、さらにアメリカのハードコアプロレス団体「CZW」と業務提携を結んで陣容を整えてきた。現在の大日本のデスマッチとして代名詞となっている「蛍光灯デスマッチ」は、この当時在籍していた本間によって考案されている。

 

1999年からは「大日本最侠タッグリーグ戦」を開催。2003年を最後に1度休止となるが、2009年に復活した。

 

2001年12月2日には横浜アリーナへの興行に進出。ミル・マスカラス、テリー・ファンクの招聘、ガラス爆破デスマッチのほか、当時、頭蓋骨骨折で長期戦線離脱していた山川の復帰戦が行われるなど、現在に至るまで最大規模の興行となっている。なお、横浜アリーナ進出に至った経緯については、当時後楽園大会が不入りが続くなど団体が崩壊寸前まで陥っていたため、それに対する「ショック療法」だったと登坂が社長就任後にこう語っている。その一方、開催資金用の借入金の返済が2008年初頭までかかった。

 

この頃に前後して上記の選手勢に加え関本大介、伊東竜二、沼澤直樹(現:”黒天使”沼澤邪鬼)ら若手選手の陣容も整ってきたことから、小鹿社長は興行に出場する機会が少なくなり、ちゃんこ屋などの副業に進出して登坂統括部長が代わって興行の現場監督的な立場として表舞台に立つ様になった。

 

その後は、自主興行のほかにDDTプロレスリング、KAIENTAI DOJOと「天下三分の計」と称した合同興行なども行っていた。また、2007年からは「興行権付き福袋」と称して正月に興行権をファンに販売して興行を開催するという企画も実施している。

 

2010年に開催された設立15周年記念大会にあっては、かつてCZW軍の主要員であったニック・ゲージのみならず、欠場となったトレント・アシッドの代理としてCZWオーナーのDJハイドが参戦。約10年ぶりの団体交流が実現。またこの頃から「ストロングBJ」をスローガンに掲げ、既に関本を通じて関係を持っていたプロレスリングZERO1との交流を深めるなどストロング部にも力を入れるようになる。9月9日の新宿FACE大会にて関本が、世界ヘビー級王座奪取に成功。同年には大日本が音頭を取り、「年越しプロレス」を開催してメジャー、インディー、女子、海外など30以上のプロレス団体・プロモーションが後楽園ホールに集結して大会を成功に導いた。

 

2011年、2月から4月にかけてデスマッチ部でのシングルリーグ戦「一騎当千」を開催、優勝者の佐々木貴には5月5日横浜文体でのデスマッチヘビー級次期挑戦権が与えられた。このリーグ戦の期間中にあたる3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と東京電力・福島第一原子力発電所での事故が発生。施設の損傷と電力事情悪化で3月21日夜開催予定の後楽園ホール大会開催が危ぶまれたが、震災後後楽園初開催となった昼のアイスリボンに続いて無事開催にこぎつけた。ストロング部門では全日本プロレスと交流をはかり、3月21日両国国技館大会にて関本と岡林裕二が全日本のアジアタッグ王座を獲得する。7月、それまで代表取締役社長を務めていた小鹿が退任し、後任として統括部長だった登坂が代表取締役社長に昇格した(小鹿は代表権のない取締役会長に。)。8月25日後楽園、元全日本女子プロレスリングアナウンサーの今井良晴がゲストでリングコールを行い、これ以降、今井リングアナウンサーが後楽園と横浜文体を中心に今井リングアナが死去する直前の2013年6月30日まで参加した。12月、業務提携を行っているCZWとwXwのライセンス契約を締結した。

 

2012年、前年に続きシングルリーグ戦「一騎当千」を開催。前年と違いこちらはストロング部門のリーグ戦となり、これ以降は奇数年をデスマッチ部門、偶数年をストロング部門で開催される。リーグ戦に優勝した佐々木義人は大日本ヘビー級王座廃止で消滅していたストロング部門の新王座創設を明言した。「BJW認定世界ストロングヘビー級王座」が創設されて5月5日、横浜文体にて初代王者決定戦が行われた。6月より六角橋商店街で行われていた商店街プロレスを、横浜市商店街総連合会との共同企画で市内10数ヶ所に拡大して開催。7月15日、デスマッチ新世代の一人であった山川が札幌テイセンホール大会をもって現役を引退した(但し、スタッフとして会社には残る)。

 

2012年下半期に入り、金村事件の影響で他団体より遅れ気味であったネット上での活動を活発化していく。まず事件の影響で禁止していた選手個人ブログの開設やTwitterの利用を解禁。動画共有サイトでも12月にYouTube、2013年2月15日にニコニコ動画にて専門チャンネルを開設。同時にメディア部を新宿区に設立して横浜本社から独立させた。なお、このメディア部はニコニコ生放送のスタジオを兼ねている。

 

2013年5月、ストロングスタイルトーナメント「RISING」を開催。16人が出場し週1回ごとの3日間で決勝まで4試合を争い、河上隆一が優勝した。また、選手の離脱が相次ぎ層が薄くなっていたプロレスリング・ノアにもストロング部門から一部選手が参戦した。一方で全日本が「鎖国」を打ち出したのに伴い交流が途絶え、代わってその全日本から分裂して旗揚げされたWRESTLE-1と交流が開始されて本格的な相互参戦が行われる。7月に今井リングアナが死去した事を受けて追悼興行が10月1日後楽園ホールにて全日本女子OG選手を中心とする女子選手の協力を得て開催された。スタッフの追悼興行は業界内でも異例の事であった。

 

2013年から2014年にかけては欠場選手が続出して一時はフリーのレギュラー参戦者を含め10人近くが欠場する異常事態となった。これを受けて「一騎当千 -strong crimb-」は中止になる方向だったが、選手側からの要望により時期をずらしての開催となった。その後は徐々に選手が復帰し新人選手もデビューする一方で大日本所属選手の退団や引退などが、相次いだ上に団体設立の経緯から友好関係にあったプロレスリングFREEDOMSからデスマッチのレギュラー参戦者がいなくなるなど、陣容の大幅な入れ替えを迫られることになった。

 

2015年、団体旗揚げから20周年に当たるのを記念して7月20日に両国国技館へ進出して成功を収め以降も年1回の両国開催を継続させている。他に札幌、横浜、名古屋、大阪、広島、福岡のビッグマッチツアーを行なっている。また後楽園ホール3連戦の最終日だった8月18日の開催日程を、悪性リンパ腫で闘病中の垣原賢人を支援する「Moving On〜カッキーエイド〜」に提供する形で協力した(垣原との接点はほとんどなかったが、同じプロレス界の人物として協力に至った。)。この年の後半より経営体制の変わった全日本との交流を再開し、2016年は新木場1stRingで若手中心の興行を毎月交互に開催した。

 

2017年は他社との共同企画でプロレス業界初となる『VRプロレス』の収録試合を実施し、また選手からの要望を受け「ストロングBJ」のジュニアクラスにあたる「ストロングJ」を創設。8月には垣原賢人の復帰により開催された『カッキーライド』に再び協力した。

 

2020年に入ると、新型コロナウイルス感染拡大の影響により多くのプロレス・格闘技団体が興行中止や無観客開催に移行する中、大日本は感染対策を施して観客を入れた通常興行を継続したが、それでも一部地方大会が中止になり、4月の緊急事態宣言発令に伴い以降の興行が中止または延期になり、進行中だった「一騎当千」決勝戦も無観客に移行された。これにより収益の柱を失い資金繰りが悪化したため、クラウドファンディングを利用して資金集めに踏み切った。