野田 征稔
ノダ ユキトシ
PL学園高では二塁手、一番打者として活躍。3年次の1959年に夏の甲子園大阪予選で準々決勝に進出するが、後にプロで同僚となるエース・久野剛司を擁する八尾高に敗退。PL教団を経て、1963年秋に阪神タイガースへ入団。同年は選手登録されておらず、選手登録は1964年からである。また、PL学園出身のプロ野球選手第1号である。
1965年は終盤の3試合に二塁手、遊撃手として先発を果たす。1967年は主に外野手として起用され、10試合に先発出場。1968年にはウエスタン・リーグの首位打者を獲得、1969年は内野手に戻る。1970年は故障の藤田平に代わって7月から遊撃手に入り、88試合に出場。翌1971年は、負傷欠場の安藤統夫に代わり6月から二塁手の定位置を得る。同年はチャンスメーカーとして活躍し打率.259を記録した。1973年までレギュラーを守り、同年にはリーグ最多犠打21個を記録。しかし1974年には開幕試合に先発出場するものの、その後は中村勝広にポジションを譲る。1975年限りで現役を引退。
その後はマネージャー(1976年 – 1977年)を経て、1978年の1年間だけ二軍守備・走塁コーチを務める。翌1979年からフロント管理部のファーム担当となり、次長まで昇進。1988年から1989年にかけては村山実監督の専属マネージャーとして活躍。同年10月、辞任の村山と新監督・中村勝広の握手を影で演出。後に「監督交代のたびに前後が断ち切られる阪神の悪しき伝統を打ち破りたかった」と語っている。1995年のシーズン途中からは一軍監督の中村勝広が休養、二軍監督の藤田平が一軍監督代行就任に伴い二軍監督となる。翌1996年、首位から18ゲーム離れた最下位に終わり、同年退任。1997年から再びフロント入りし、2001年に営業部次長として定年を迎える。定年後は編成部の嘱託スカウトとなり、2004年まで務め退団した。この間、タイガースOB会の役員となり、少年野球の指導にも力を入れる。
退団後、野球タイ王国代表のコーチを2006年まで務める。2008年、ベースボール・チャレンジ・リーグの福井ミラクルエレファンツ野手コーチに就任。2010年からは監督を務める。2011年のシーズンを最後に勇退した。
最終スポーツ歴 | 福井ネクサスエレファンツ(野球) | 生年月日 | 1941年12月5日 |
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身長 | 176cm | 体重 | 71kg |
2005年 - 2006年
タイ王国代表コーチ