2017年 - 2017年
ハンファ・イーグルス 打撃コーチ
2011年 - 2013年
コーチ~監督~二軍監督
統一セブンイレブン・ライオンズ(台湾) 2011年~コーチ 2012年途中~監督 2013年8月~二軍監督
1981年 - 1988年
投手~外野手・内野手
プリンスホテルに入社。1983年に右肩鎖関節下の血行障害を発症し、4ヶ月の療養の末に投手を断念して1984年から野手に転向。指名打者制の社会人では全く打撃練習をしていなかったが、毎日1,000回はバットを振り、1986年の春頃からバッティングに手応えを感じるように。 1987年、アジア選手権兼ソウル五輪予選では日本代表の4番を務め、打率.714、4本塁打、14打点の成績で大会三冠王となり、チームも同五輪への出場権を獲得。また、同年のIBAFインターコンチネンタルカップでも6本塁打。この活躍を評価され、翌年のソウル五輪代表入りのためプロ入りしないよう監督の石山建一から要請され、これを受諾。この要請の背景には、日本野球連盟会長の山本英一郎とプリンスホテルオーナーの堤義明の意向もあったという。同年は初の社会人ベストナインを一塁手として受賞。1988年は同僚の石井丈裕や小川博文とともに五輪代表に選出され、筒井大助らとともに野手陣のまとめ役。準決勝の対韓国戦では、7回裏に登板したエースの朴東熙(朝鮮語版)から同点ホームラン。同五輪では5試合全てに4番・一塁手としてスタメンで出場し、いずれもチームトップの10安打、打率.436、1本塁打、6打点の成績で銀メダル獲得に貢献。同年も社会人ベストナイン選出。また、11月12日には3年間交際した女性と高輪プリンスホテルで結婚式を挙げた。同年秋のドラフト会議で日本ハムファイターズと福岡ダイエーホークスから1位指名を受け、抽選により日本ハムが交渉権を獲得した。
1978年 4月 - 1980年
柳川商業高校(在学時に柳川高校に名称変更) 投手を務めて1年秋の神宮大会優勝。2年秋の県大会および九州大会では9試合に登板して5失点のみ、5完封、100奪三振、ノーヒット・ノーラン2回という好投を見せて翌年春の選抜大会出場に貢献。本大会では2回戦で尼崎北に敗れたが、長身からネッシーをもじって「テルシー」と呼ばれ、人気を博した。
1975年 - 1977年
投手
三田川中学 県大会準優勝