TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

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中島宏之

ナカジマ ヒロユキ

内野手

最終スポーツ歴 読売ジャイアンツ(野球) 生年月日 1982年7月31日
身長 180cm 体重 90kg
投/打 右/右
出身地 兵庫県伊丹市
出身小学校 伊丹市立桜台小学校
出身中学校 伊丹市立天王寺川中学校
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スポーツ歴

読売ジャイアンツ 野球

2019年 - 2023年10月

内野手

2018年11月22日に読売ジャイアンツと選手契約を結び、東京ドーム内にて監督の原辰徳の同席の下、入団会見を行った。その際、背番号は5となることもあわせて発表。オリックスを自由契約になった後に、原監督から電話でラブコールを受けたことが巨人入団の決め手になった。オリックス時代の年俸から2億円減となる推定年俸1億5000万円での単年契約。
2020年8月14日の中日ドラゴンズ戦で通算200本塁打を達成。
2022年4月27日の対DeNA戦(横浜スタジアム)では4回一死満塁の打席で坂本裕哉からシーズン唯一の本塁打である満塁本塁打を放った。巨人で39歳8か月での満塁本塁打は阿部慎之助の39歳5か月を抜く球団最年長記録。
9月24日に臼杵市民球場で行われた最終戦を最後に大分B-リングスに所属していた内川聖一が現役を引退したため、20世紀にドラフトされた最後の現役選手となった。8試合の出場で5安打に留まり、10月13日に戦力外通告を受けた。

 

オリックス・バファローズ 野球

2015年 - 2018年

内野手

オークランド・アスレチックス 野球

2013年 - 2014年

(アスレチックス傘下時代)

2013年5月3日にはAAA級サクラメント・リバーキャッツの公式戦に出場。シーズン成績は、打率.283、4本塁打、OPS.698。
2014年3月28日に40人枠入りし、翌日にAAA級サクラメントへ異動[31]。4月3日に再び40人枠から外れ、AAA級では打率.128、0本塁打の成績で、4月30日にはAA級ミッドランドへ降格した。その後は昇格することなくマイナーのレギュラーシーズンを終える。

埼玉西武ライオンズ 野球

2001年 - 2012年

内野手

2002年は、イースタン・リーグ公式戦でただ1人全100試合に出場。リーグの規定打席へ到達しリーグ最多の安打、得点、犠飛、死球を記録した。併殺打10本、25失策もリーグ最多で、リーグ2位の打率.299、チーム2位の11本塁打、リーグ4位の47打点となりファームの優秀選手賞に選出。10月6日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)に「5番・指名打者」としてスタメンで一軍デビューし、2回表に金村曉から一軍での初安打など、一軍公式戦にも4試合へ出場した。
2003年は、一軍公式戦44試合に出場し、一軍での初打点、初本塁打、初盗塁を記録。イースタン・リーグ公式戦では、規定打席に達しなかったものの、チームトップの打率.306、チーム2位の13本塁打。
2004年は、背番号を3へ変更。前年までの正遊撃手だった松井が海外FA権の行使によってニューヨーク・メッツへ移籍したことを背景に、一軍公式戦の開幕から「7番・遊撃手」としてスタメンに抜擢。開幕スタメンを伊東勤監督に進言したのは土井正博ヘッド兼打撃コーチ。その後も「正遊撃手は荷が重過ぎる」との声が上がる中スタメンで起用され、オールスターゲームにも監督推薦で初出場した。同年のパシフィック・リーグでは唯一フルイニング出場し、打率.287(リーグ19位)、27本塁打(リーグ8位)、90打点(リーグ7位)、18盗塁(リーグ4位)を記録。
2008年はオールスターゲームに4度目の出場。共に同じ遊撃手の川﨑宗則、西岡剛が選出されたこともあり、オールスターゲームでは三塁手を務めたが、悪送球による失策を記録。
4年ぶりに20本塁打を記録とリーグ優勝に貢献。
前半戦終了時にリーグトップだった打率は後半戦に入って徐々に落ちていったが、楽天のリック・ショートと首位打者を争い、楽天との最終戦までもつれ込んだ。結果は7毛差で及ばなかったが自己最高の打率.331を記録。最終戦後には敬遠されなかったことについて「勝負してくれて嬉しかった」と語った。シーズン成績はチームトップの55四球を選び、それぞれ自己最高を更新する出塁率.410、25盗塁で、初タイトルとなる最高出塁率を獲得。遊撃守備ではリーグ2位の12失策を記録したものの、守備率は遊撃手部門2位を記録して送球ミスも減り、ゴールデングラブ賞とベストナインを初受賞。同年、かつて西武で背番号「3」を着けていた清原が引退を表明し、オリックス・バファローズとの最終戦の日にユニフォームの交換を行なった。巨人との日本シリーズでは第1戦と第2戦で2試合連続本塁打を放つ。第5戦では怪我で途中交代したものの、第6戦以降も満身創痍で先発出場し続け7戦全てで安打を記録し日本一に貢献、優秀選手に選出。オフの契約更改で年俸2億円に到達。「野球をやっている以上、いろんな国の選手がいる中でやってみたいという夢はあります。メジャーに行けるような選手になりたい」と将来的なメジャーリーグ挑戦志向を表明。
2009年6月21日の東京ヤクルトスワローズ戦で通算100本塁打を達成。オールスターゲームに選手間投票によって選出され5度目の出場。第2戦でファウルボールを観客席に突っ込んで捕球するなどしてベストプレー賞を受賞し、「守備で賞を頂けたことがうれしい」とコメント。主に3番遊撃手としてリーグで唯一全試合フルイニング出場してシーズン後半には故障した中村剛也の代わりに4番打者も経験し、2年連続3割20本塁打20盗塁(史上5人目)、自己最多の92打点、173安打で自身初の最多安打、出塁率.398で2年連続となる最高出塁率のタイトルを獲得し、2年連続でベストナインも受賞。遊撃守備では初めて守備率.980台を記録。
2011年は最終的に右投手に対しては打率.316と例年通りの成績を残したが、左投手に対しては打率.237と苦手とした。本塁打も16本と4年ぶりに20本を下回ったが、得点圏打率はリーグ2位の.351を記録し、遊撃手としては鳥谷敬以来史上二人目、パシフィック・リーグでは初となるシーズン100打点を達成。中村剛也とともに球団初の100打点コンビとなった。また、21個の盗塁を成功させ失敗はわずか2個で、盗塁成功率は.913であった。オフには球団よりポスティングシステムを利用したメジャー移籍を容認されたことを受け、11月22日にメジャー挑戦を正式表明。同月28日に申請書類を提出し、12月8日には入札額250万ドルでニューヨーク・ヤンキースが交渉権を獲得したことが発表された。その後グレグ・ゲンスキーを代理人として入団交渉を行ったが契約合意には至らなかった。
2012年1月10日に契約更改を行い、このシーズンも残留することが決定。シーズンでは6月の月間MVPを獲得。12年目で初の受賞。故障で離脱した中村の代わりに4番を打つこともあった。首位打者を牽引していたが、8月に腰の状態が悪化、9月に左脇腹痛を発症してからは打率が下がり、ロッテの角中勝也と首位打者を競うことになる。ロッテとの最終戦では1打席は四球。2打席目も敬遠気味にボールを投げられ、その際2球わざと空振りした。最終戦では2打席凡退し、打率.311。1厘差で首位打者を逃した。オフには海外FA権を行使する。

伊丹北高等学校硬式野球部 野球

1998年 - 2000年

投手・内野手

1年時からレギュラーに定着。兵庫大会では、1年夏に右翼手、2年夏に1番打者、先発投手に転向した3年夏には「1番・投手」として出場。在学中のチーム成績は2年夏の兵庫県大会での16強が最高であったが、中島自身は対外試合で通算43本塁打を放ったことから、西武ライオンズのスカウト陣の目に留まった。

2000年度ドラフト会議で、西武から内野手として5巡目指名を受け、契約金4000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団。背番号56。

宝塚リトルシニア 野球

1995年 - 1997年

高校進学時には県外からもスカウトされたが、地元の報徳学園高校を山崎と共に受験。山崎は合格したものの、中島は合格に至らなかったため、兵庫県立伊丹北高校に進学。シニアでの厳しい練習から野球に嫌気が差していたこともあり、強豪校とは違う練習環境の中で力を伸ばしていった。後に本人は「報徳に入学していたら野球を続けていなかったと思う」と述べている。

野球

○○年 - 1994年

伊丹市立桜台小学校時代は投手として幼馴染みの山崎勝己とバッテリーを組み、全国大会に出場。

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