TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

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76 紺田敏正

コンタ トシマサ

ファーム外野守備走塁コーチ

現在の所属 北海道日本ハムファイターズ(野球) 生年月日 1980年8月12日
身長 185cm 体重 80kg
出身地 富山県砺波市平成町
投/打 右/左
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スポーツ歴

北海道日本ハムファイターズ 野球

2013年 - 現在

2012年11月、ファーム外野守備走塁コーチ就任を発表。

2014年7月1日より大塚光二に代わって日本ハム一軍外野守備走塁コーチに担当変更。
2016年からは再びファーム外野守備走塁コーチを務め、
2022年より再び一軍外野守備走塁コーチに復帰。
オフにファーム外野守備走塁コーチに配置転換される。

北海道日本ハムファイターズ 野球

2012年 - 2012年

外野手

再起をかけて、2011年12月5日に右肩腱板部のクリーニング手術を受けるが完全には回復せず、一軍出場が無いままシーズンを終えた。その後、現役引退と日本ハムの二軍外野守備走塁コーチ就任を発表した。

読売ジャイアンツ 野球

2011年 - 2011年

外野手

2011年シーズンは開幕から一軍に登録され、打撃面でも好調さを見せたものの、右肩を痛めた影響から4月26日に橋本到と代わって登録を抹消。5月14日には故障の小笠原道大が抹消されたことで一軍昇格するも、6月10日に再び抹消。一軍出場は2006年と同じくわずか21試合に留まり、以後は故障もあり二軍戦の出場も減少。同年11月15日に戦力外通告を受けた。

その後、12球団合同トライアウトを受験し、11月27日に北海道日本ハムファイターズへの復帰が決まった。背番号は67。

北海道日本ハムファイターズ 野球

2003年 - 2010年11月

外野手

プロ1年目の2003年には二軍で打率3割、14盗塁を記録し、一軍でもプロ初打席初安打となる三塁打を大阪近鉄バファローズの岩隈久志から記録。

それ以降2年間はケガなどで伸び悩み一軍出場はなかったが、2006年に開幕一軍入り。すぐに二軍落ちしたが、同じ外野手の稲葉篤紀と坪井智哉が8月5日・6日に相次いで故障したことから再昇格のチャンスを得る。主に代走としての起用だったが、この年初先発出場の8月13日の千葉ロッテマリーンズ戦(札幌ドーム)で先発の渡辺俊介からプロ初打点を挙げた。以後も渡辺との対戦時に高打率を誇り、小田智之と共に「俊介キラー」と呼ばれるようになった(この年21試合出場、うち4試合のスタメンのうち3試合が対渡辺戦。渡辺との通算対戦成績は23打数10安打、打率.435と相性が良く、また一軍での通算本塁打2本のうち1本は渡辺から打ったものである)。同年秋のアジアシリーズでは、出場を辞退した現役を引退する予定のSHINJOに代わり、3試合に左翼手として先発出場した(その年に主に左翼手を務めていた森本稀哲が、SHINJOが務めた中堅手に回る)。

2007年は飯山裕志と共に代走及び守備固めとして試合終盤を任され、94試合に出場(うち先発出場は6試合)。リリーフ捕手の中嶋聡を含めたスーパーサブトリオとしてトレイ・ヒルマン野球の一端を担った。4度の代打機会で3安打を打つ勝負強さも見せた。

2008年は森本の離脱時に先発出場が増えたが、シーズン終盤に足を痛めたことで打撃面では低迷した。しかし代走としては前年に続きここぞという場面で起用され、チームを何度も救った。

2010年11月9日、ウィルフィン・オビスポとのトレードで、須永英輝とともに読売ジャイアンツへ移籍した。背番号は44。

国士舘大学硬式野球部 野球

1999年 4月 - 2002年

主将・外野手

東都大学野球連盟の国士舘大学時代に3年秋に東都二部リーグの首位打者に輝き、持ち前の俊足と強肩から「二部のイチロー」と称された。4年時は主将。

2002年のドラフト会議で日本ハムファイターズから6巡目指名を受けて入団。背番号52。

高岡商業高等学校硬式野球部 野球

1996年 4月 - 1998年

外野手

高校に入る前に左打ちに変更、高岡商時代は外野手で、2年秋に県大会優勝したが北信越大会は初戦敗退。プロバスケットボール選手の野尻晴一は同級生だった。

1993年 - 1995年

小学2年の時に野球を始める。右投げ右打ちであったが、高校に入る前に左打ちに変更。

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