TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

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カズ・ハヤシ

現在の所属 GLEAT(プロレス) 生年月日 1900年1月---日
身長 173cm 体重 83kg
出身地 東京都世田谷区
本名 林 和広
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スポーツ歴

GLEAT プロレス

2020年 8月 - 現在

選手 兼 最高技術顧問

2020年8月、リデットエンターテインメントが独自の団体「GLEAT」設立を発表し、最高技術顧問に就任する。

2021年12月30日、GLEAT Ver.2TOKYO DOME CITY HALL大会においてMUSASHIが保持する東北ジュニアヘビー級王座に挑戦、カズのかつての元所属団体であるみちのくプロレスの同王座にデビューして30年目での初挑戦となったが、最後はMUSASHIの二天一流に沈んだ。

プロレス

2020年 4月 - 2020年7月

2020年5月1日、リデットエンターテインメントの執行役員に就任。後にNOSAWAの人脈からプロレスリング・ノアに参戦し、杉浦貴の率いる杉浦軍に加入する。

WRESTLE-1 プロレス

2013年 7月 - 2020年3月

2013年6月30日の両国国技館大会を最後に全日本プロレスを退団した。7月10日、WRESTLE-1旗揚げ会見にて入団を発表。

2017年3月27日、同年4月1日よりWRESTLE-1の取締役社長へ就任することを発表した。カズの社長としての初試合は4月2日、プロレスリングA.C.E.での佐藤嗣崇戦。なお、佐藤にとってはこれがデビュー戦であった。

WRESTLE-1活動停止のため、2020年3月31日付を持って選手契約終了となった。

全日本プロレス プロレス

2002年 - 2013年6月

2002年、全日本プロレスに移籍したばかりの武藤敬司からのラブコールにより、WWFを退団して全日本プロレスに入団。
2003年12月、小島聡とタッグを組んで「世界最強タッグ決定リーグ戦」に初出場して制覇。ジュニア選手として同リーグ戦を初めて制覇した。この時の公式戦で武藤&嵐組に苦戦しながら、カズが嵐からフォールを奪った際の小島の発言である「カズ、ありがとう。お前は男だ、男の中の色男だ」から、「男の中の色男」がキャッチフレーズとなった。
2004年2月22日、BLUE-K(TAKAみちのく)との王座決定戦に勝利し、世界ジュニアヘビー級王座を獲得。その時、次期挑戦者としてアピールしにリングに上がったNOSAWA(現NOSAWA論外)に対し、「お前は(挑戦者としては)論外だ!」と言い放った。これを機にNOSAWAは、“NOSAWA論外”というリングネームに改名した。ハッスルにも、レオナルド・スパンキー、ジミー・ヤンらとタッグを組み参戦。4月、「チャンピオン・カーニバル」に初出場する。
2005年1月5日、TAKAに世界ジュニア王座を奪われてからは、NOSAWA論外に強引に組まされる形でユニット「論カズ」を結成。コミカル路線に走りかけるも、結局は全日本ジュニアを熱く盛り上げる道を選択する。カズもこの頃から、練習生にトレーニングの指導を始めていった。
2006年、全日本プロレスの第1回「ジュニア・ヘビー級リーグ戦」で優勝し、8月27日に近藤修司の持つ世界ジュニア王座に挑戦したが、奪還することが出来なかった。
2007年2月20日、全日本プロレスを無期限で欠場すると宣言し、メキシコに渡った。その直後、全日本プロレスに「メキシコ・アミーゴス」なる謎のメキシカン・レスラー3人組が参戦した。その中には、ミゲル・ハヤシJrという、カズに似たレスラーも含まれていた(他の2人は「ペペみちのく」と「エル・ノサワ・メンドーサ」)。「メキシコ・アミーゴス」は「メキシコ・アミーゴスDX」と改名後、2007年12月16日に「全日本プロレス 2007ファン感謝デー」にて解散した。この時には「正体を知らないふりをしてくれてありがとうございました」のコメントを残した。
2008年からはジュニア最前線復帰を宣言。2年ぶりの「ジュニア・タッグリーグ戦」ではエル・サムライとのタッグで出場するが、決勝戦で土方隆司、中嶋勝彦組に敗れ準優勝に終わった。世界最強タッグ決定リーグ戦では西村修と、第81代アジアタッグ王者決定トーナメントでは武藤とのタッグで出場した。
2009年2月6日、プロレスリング・ノアの丸藤正道に流出していた世界ジュニア王座を奪取し、第28代王者となる。4月、5年ぶりのチャンピオン・カーニバルに出場。決勝では鈴木みのるに敗れたもののジュニア選手ながら準優勝を成し遂げた。直後のジュニア・タッグリーグ戦でも近藤とのタッグ「チーム246」で出場し、優勝決定戦で稔&歳三組に敗れ、準優勝にとどまった。
2010年9月20日に菊地毅とのジュニアヘビー級王座防衛戦に勝利し、世界ジュニアヘビー級王座最多連続防衛記録を更新した。2011年1月2日の後楽園ホール大会にて稔に敗れるまで、17回の防衛に成功した。
2013年6月30日の両国国技館大会を最後に全日本プロレスを退団した。

プロレス

1998年 7月 - 2002年

WCW ⇒ WWF

1998年7月、WCWと契約を結ぶ。

2000年、ジミー・ヤン、ジェイミー・サンと共にユニット「ヤング・ドラゴンズ」を結成してレギュラーポジションを獲得。4月、みちのくプロレス主催で開催された「SUPER J-CUP」に出場するため日本に一時帰国。1回戦でザ・グレート・サスケと恩讐を越えて戦うも、敗退。4月9日の両国国技館大会にもトーナメント敗者によるタッグマッチに出場予定であったが、カズは「トーナメントに勝つために戻ってきたので負けた以上日本に残る意味は無い」と頑なに拒否した。

2001年、「マンデー・ナイトロ」の生中継に唯一の日本人として出場。
同年のWCW崩壊後、WWFが選んだ24人の契約選手に残りWWFと契約。しばらくはWWFの下部組織「HWA」でトレーニングを積んでいた。

みちのくプロレス プロレス

1993年 6月 - 1998年6月

1993年6月、みちのくプロレスに移籍。

並外れた身体能力が注目されて新日本プロレスに参戦時は「欽ちゃんジャンプ」で人気を博す。

1994年9月15日、ディック東郷、テリーと共にルード軍「平成海援隊」を結成。

1995年、怪我で欠場。

1996年1月10日、怪我からの復帰を機に軍団名を「海援隊☆DX」に改名。6月14日、タッグチーム「夢狩人」で活動していたTAKAみちのくと船木勝一が海援隊☆DXに加入。

1997年3月、みちのくプロレスを退団。6月、メキシコ遠征に出発。

1998年2月22日、WCWに参戦。同年、マスクを脱ぎリングネームをカズ・ハヤシに改名。6月、新日本プロレスで開催された「BEST OF THE SUPER Jr.」に出場。

プロレス

1991年 12月 - 1993年5月

ユニバーサル・プロレスリング

1991年12月、ユニバーサル・プロレスリングに入門。

1992年11月19日、ユニバーサル・プロレスリング後楽園ホール大会で覆面レスラー「獅龍(しりゅう)」としてテリー・ボーイとタッグを組んで対モンゴリアン勇牙&バッファロー張飛組戦でデビュー。

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