TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

PLAYERS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

※ 新規登録と情報の変更申請はこちら

91 金子千尋

カネコ チヒロ

特命コーチ

現在の所属 北海道日本ハムファイターズ(野球) 生年月日 1983年11月8日
身長 180cm 体重 77kg
2019年から2021年までの登録名 金子弌大(かねこ ちひろ)
出身地 新潟県三条市
投/打 右/左
もっと見る

スポーツ歴

北海道日本ハムファイターズ 野球

2023年 - 現在

特命コーチ

2022年12月23日に日本ハムの特命コーチに就任し、翌年の春季キャンプの時期からアメリカへコーチ留学を行うことも発表。背番号は91。

北海道日本ハムファイターズ 野球

2019年 - 2022年

投手

<節目の記録>
・2000投球回:2021年5月18日、対東北楽天ゴールデンイーグルス10回戦(楽天生命パーク宮城)、1回裏三死目に茂木栄五郎から中飛で達成 ※史上91人目

 

<その他の記録>
・全球団勝利:2019年4月18日、オリックス・バファローズ6回戦(ほっともっとフィールド神戸)、5回無失点 ※史上18人目

 

 

2018年12月4日に、北海道日本ハムファイターズとの間で1年契約の締結に合意。背番号はオリックス時代と同じ19。年俸は6億円から4億5000万円減の1億5000万円(推定)となり、移籍を伴うため参考記録ながら、減俸額は杉内俊哉(当時、巨人)と並ぶタイ記録であった。「新しいチームで一から始める姿をファンに見せていきたい」という意向で、登録名は「金子 弌大」(読みは本名と同じ)に変更。

2019年は、前年にMLBで広まったオープナー戦術を採用する方針を当時の監督である栗山英樹が打ち出したことを背景に、オープナー(ショート・スターター)として先発した投手を試合の前半から救援する「第二先発」(ロングリリーフ)要員として調整。レギュラーシーズンの開幕後も、左投手の加藤貴之や堀瑞輝がオープナーに起用された試合で「第二先発」を務めた。その一方で、オリックス時代に続いて、本来の先発(スターター)にも随時起用。4月18日の対オリックス戦(ほっともっとフィールド神戸)では、5回無失点1被安打の好投で移籍後初勝利を挙げたことによって、林昌範以来およそ5年ぶりにNPB一軍公式戦史上18人目の全球団勝利を達成。一軍公式戦全体では、先発で19試合、救援で7試合に登板。通算成績は8勝7敗だが、全ての白星を先発だけで挙げた一方で、中継ぎを含めた救援登板では2ホールドを記録した。特に古巣のオリックスにめっぽう強く、初対決の試合の3回に2失点して以降30イニング無失点で防御率0.49、5勝無敗を記録。チームの全日程終了後の10月19日に、オリックス時代の前年に取得した海外FA権を行使せず、1年契約で日本ハムへ残留することを表明。

2020年は、本人の希望でもある中継ぎとして主に登板し、34試合で1勝3敗、防御率5.11。12月17日、契約更改交渉に臨み、年俸1億8000万円から約80%減となる年俸3500万円プラス出来高払いでサイン。

2021年は先発6試合を含む8試合に登板したが、0勝4敗、防御率6.21。オフに1500万円減となる推定年俸2000万円で契約を更改し、2022年シーズンから登録名を本名の「金子 千尋」に戻すことを表明。

2022年は、一軍では3試合の登板で1勝2敗、防御率4.85の成績に終わったが、二軍ではイースタン・リーグでチームトップ7勝、防御率2.49を記録。しかし、翌年の構想から外れ、シーズンオフにGMの稲葉篤紀から現役引退とコーチ就任を要請されたが、現役続行を希望して辞退したことで、10月17日に自由契約となることが発表。NPB球団での現役続行を希望していたが、オファーは届かず、12月23日に現役引退を表明。

オリックス・バファローズ 野球

2005年 - 2018年

投手

【タイトル】
・最多勝利:2回(2010年、2014年)
・最優秀防御率:1回(2014年)
・最多奪三振:1回(2013年)

 

【表彰】
・沢村栄治賞:1回(2014年)
・最優秀選手:1回(2014年)
・ベストナイン:1回(投手部門:2014年)
・ゴールデングラブ賞:1回(投手部門:2014年)
・月間MVP:7回(投手部門:2008年7月、2010年7月、8月、2011年9月、2014年8月、9月、2017年3・4月)
・最優秀バッテリー賞:1回(2014年 捕手:伊藤光)
・JA全農Go・Go賞:1回(最多奪三振賞:2012年5月)
・「ジョージア魂」賞:1回(2014年度第5回)
・オールスターゲーム ベストピッチャー賞:1回(2009年第2戦)
・日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回(2014年)
・日本プロスポーツ大賞 功労賞:1回(2014年)
・ヤナセ オリックス・バファローズMVP賞:1回(2014年)

 

【記録】
<初記録>
投手記録
・初登板:2006年4月12日、対西武ライオンズ3回戦(スカイマークスタジアム)、9回表に2番手で救援登板、1回無失点
・初奪三振:同上、9回表に炭谷銀仁朗から空振り三振
・初先発:2006年7月1日、対西武ライオンズ9回戦(インボイスSEIBUドーム)、4回7失点で敗戦投手
・初勝利:2006年8月9日、対西武ライオンズ14回戦(京セラドーム大阪)、8回表一死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
・初ホールド:2006年8月13日、対福岡ソフトバンクホークス14回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、9回裏一死に4番手で救援登板、1回2/3を無失点
・初セーブ:2007年3月29日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(スカイマークスタジアム)、8回表一死に2番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
・初先発勝利:2007年8月18日、対西武ライオンズ18回戦(グッドウィルドーム)、5回3失点
・初完投勝利・初完封勝利:2007年8月26日、対東北楽天ゴールデンイーグルス20回戦(京セラドーム大阪)

 

打撃記録
・初安打:2009年6月17日、対横浜ベイスターズ4回戦(横浜スタジアム)、5回表に吉見祐治から三塁内野安打
・初打点:2014年5月23日、対広島東洋カープ1回戦(ほっともっとフィールド神戸)、7回裏に前田健太から中越適時二塁打

 

<節目の記録>
・1000投球回:2013年7月24日、対北海道日本ハムファイターズ12回戦(京セラドーム大阪)、3回表一死目にマイカ・ホフパワーから見逃し三振で達成 ※史上335人目
・1000奪三振:2014年4月25日、対東北楽天ゴールデンイーグルス4回戦(京セラドーム大阪)、5回表に枡田慎太郎から見逃し三振で達成 ※史上136人目
・100勝:2016年5月20日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(京セラドーム大阪)、7回2失点 ※史上133人目
・1500投球回:2016年8月19日、対東北楽天ゴールデンイーグルス15回戦(京セラドーム大阪)、7回表三死目にジャフェット・アマダーから空振り三振で達成 ※史上173人目
・1500奪三振:2018年4月10日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(京セラドーム大阪)、1回表にカルロス・ペゲーロから空振り三振で達成 ※史上53人目

 

<その他の記録>
・全球団勝利:2019年4月18日、オリックス・バファローズ6回戦(ほっともっとフィールド神戸)、5回無失点 ※史上18人目
・9回まで無安打無得点:2014年5月31日、対読売ジャイアンツ戦(京セラドーム大阪)、9回を無安打4与四球1失策無失点。チームは延長12回0対1で敗戦
・オールスターゲーム出場:3回(2009年、2014年、2017年)

トヨタレッドクルーザーズ(トヨタ自動車硬式野球部) 野球

2002年 - 2004年

投手

入社3年目の2004年にクローザーとして頭角を現し、都市対抗野球大会でも好投した。

2004年11月17日に行われたNPBドラフト会議で、当時存在していた自由獲得枠を通じてオリックス・バファローズに入団。大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併によって誕生したオリックス・バファローズが最初に獲得した新入選手の1人となった。この会議は、前述の合併および東北楽天ゴールデンイーグルスの新規参入によるプロ野球再編問題の渦中に開かれたため、オリックス・バファローズは直前まで参加を危ぶまれていた。

長野商業高等学校硬式野球部 野球

1999年 4月 - 2001年

投手

進学後は、自宅から40分かけて通学し、夜遅くまで練習して21 – 22時に帰宅する毎日を送っていた。毎日の走り込みで体力向上に努め、3年生が引退した1年秋の第101回北信越高校野球大会1回戦でリリーフとして初登板を果たし、5回を1失点に抑える。当初は2年生のエースに続くリリーフとして登板していたが、同大会の県予選準々決勝で初先発すると、東海大学第三高校(前年のセンバツ出場校)を1失点完投で退け、注目を浴びる。そして、実質的に甲子園への切符を賭けた試合となった高岡第一高校(富山県)との準決勝で先発登板すると、延長12回、141球を完投し、6被安打・14奪三振の快投で勝利投手となった。当時は身長174 cm、体重60 kgと細身ではあったが、最高球速134 km/hの速球に、得意のスライダーを織り交ぜた投球を武器にしていた。これにより、甲子園出場を確実なものとしたチームは決勝へ進出したが、金子自身は決勝戦では登板はなく、敦賀気比の2年生バッテリー内海哲也と李景一の前に、チームは零封に終わる。
2年時の2000年春に第72回選抜高等学校野球大会へ出場。2回戦で、近澤昌志・平野佳寿などを擁する鳥羽高校に敗れた。
夏の選手権長野大会では、2年時に準優勝。3年時には2回戦で7回参考ながらノーヒットノーランを記録したが、準決勝で12奪三振を記録しながら塚原青雲高校に敗れた。
高校時代から、後に入団するオリックス(当時の球団名は「オリックス・ブルーウェーブ」)のスカウトを務めていた熊野輝光が、千尋の投球に注目しており、特にカーブを高く評価していた。

長野北リトルシニア 野球

1996年 - 1998年

投手

長野市立長野東部中学校への進学後は、長野北シニアリーグに所属し、エースとして活躍。また、このころからプロ野球選手になることを意識するようになる。

中学在学中から長野県内の野球強豪校数校から勧誘されたが、長野商業高校の野球部監督から「創立100周年に一緒に甲子園をめざそう」と言われたことを意気に感じ、1999年春に長野東部中を卒業して同校に進学した。

野球

1993年 - 1995年

石渡育成会少年野球倶楽部

小学4年への進級時に一家で長野県長野市へ転居し、長野市立朝陽小学校に転校する。少年野球が盛んな地域だったことから、朝陽小5年生の時、野球に本格的に取り組むようになり、地元の石渡育成会少年野球倶楽部に入団。投手として入団し、左打ちを始めた。当時、長野の小学生にとって、自宅で観戦できるプロ野球のテレビ中継は読売ジャイアンツ(巨人)の試合が中心だったため、千尋自身も自然と巨人の選手に注目するようになっていたが、当時は投手よりもむしろ打者(緒方耕一・高橋由伸ら)に憧れていた。

サッカー

1990年 - 1992年

小学生の頃、新潟にいた時はサッカーをしていた。

もっと見る