一枝修平
イチエダ シュウヘイ
1974年 - 1974年
内野手
二塁手として起用され、同年に現役を引退した安藤統男の後釜であるだけにとどまらず、将来の指導者候補としての技量も評価されての移籍であった。阪神では背番号1を付けたが、57試合に出場しただけで、1974年のシーズン終了後に現役を引退。
1972年 - 1973年
内野手
1972年に飯田幸夫との交換トレードで、地元の近鉄バファローズへ移籍。中日時代に続いて背番号2を付け、遊撃手として活躍したが、1973年には故障もあって関根知雄、西村俊二と併用され、自己最少の53試合出場にとどまった。若手育成という球団の方針で二軍落ちしたが、母校・明大の先輩である近藤和彦、同期の辻と共にトリオでプレーし、慌てず騒がずの心境であった。シーズン終了後には辻と共にトレード要員となり、球団から自由契約を通告されたが、阪神タイガースへ移籍。
1964年 - 1971年
内野手
1年目から内野のユーティリティプレイヤーとして一軍で起用される。同年は二塁手、遊撃手として27試合に先発出場。阪神戦(甲子園)で本間勝から初本塁打を放ったものの、降雨ノーゲームで幻に終わった。1年目こそ背番号54を付けていたが、2年目の1965年以降は一貫して背番号2を着用。3年目の1966年には遊撃手として規定打席に初めて到達し、リーグ13位の打率.265を記録したほか、リーグのベストナインに選出された。1968年には自身唯一の2桁本塁打(13本)とオールスターゲーム出場を果たす一方で、10月10日の阪神戦で江夏豊から三振を奪われたことによって、江夏はシーズン最多奪三振のNPB最多記録(401奪三振)を達成した。遊撃手や二塁手としての守備力は高く、当時の正二塁手・高木守道からのバックトスの受け手として併殺を頻繁に完成させていたが、1971年には新入団のバート・シャーリーに遊撃手の定位置を譲り、出場機会が減少。
1963年 - 1963年
河合楽器
遊撃手に転向。同年の都市対抗では、優勝した積水化学に準決勝で敗れたものの、リッカーとの準々決勝で5打数4安打と活躍。この大会でのチームメイトに渡辺秀武(日本軽金属からの補強選手)がいた。
1959年 4月 - 1962年
内野手
二塁手に転向。東京六大学野球リーグでは2年次の1960年春季リーグからレギュラーに定着し、在学中は通算82試合出場で0本塁打ながら打率.251(263打数66安打)・21打点を記録。2年次の1960年秋季、4年次の1962年秋季リーグで、二塁手としてベストナインに選出。3年次の1961年には春季リーグで6年振りに優勝し、同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝でエース宮田征典を擁する日本大学に敗退。野球部の同期生には、後藤晃吾、八木孝、辻佳紀、別部捷夫、松本雄作(4年次の中退を経て国鉄へ入団した外野手)。