立命館宇治高等学校硬式野球部は旧・宇治高等学校硬式野球部の歴史と伝統を受け継ぐものである。
1987年に京都府高等学校野球連盟が発行した『京都高校野球史(全4巻)』によれば、宇治高等学校硬式野球部は1965年学校法人宇治学園・宇治高等学校の創立から4年後、第51回全国高等学校野球選手権京都大会に初参加している。第51回大会といえば決勝戦で三沢対松山商の延長18回引き分けが語り継がれる大会でもある。この大会の地方大会(京都大会)で初出場・宇治は2回戦(初戦)で桂高校に1-17(7回コールド)で敗退している。当時のメンバー表には「部長・熊崎邦彦」(元教頭)「監督・小仲外治」(元部長)とあり、当時を二人は「ほとんどグランドの石ころ拾いの毎日であった」と語る。
その後1975年までは勝利に恵まれなかったが、翌年夏に初のベスト8進出を果たすと、翌秋には初の近畿大会出場。惜しくもセンバツ出場は逃したが、円山治行監督(元久御山高校監督)に受け継がれ、「強力打線」を看板に常に上位進出する安定ぶりを発揮した。
1979年に念願の京都大会で優勝を果たし、甲子園初出場。この大会では箕島高校と壮絶な延長18回を戦い抜いた星稜高校(石川県)に敗れた。その3年後、古家利幸監督(現・顧問)に率いられ、2度目の優勝。荒木大輔(元ヤクルト)を擁する早稲田実業(東京都)に敗れたが、この4年間が過去の歴史の中でも最も輝かしいものとなっている。
この間に活躍した選手に北野明仁がいる。江川問題でドラフトをボイコットした巨人が真っ先にドラフト外で獲得。選手では大成しなかったが、真面目な人柄を買われ、現在も巨人の主砲・松井選手の打撃投手を務めている。また初出場時の1年生、湯川素哉は早稲田大学に一般入試で現役合格し、花の東京六大学で1年秋より4番打者として活躍した。
1988年に岩崎善博監督に受け継がれ、4年後には準優勝。有坂貞治(元ローソン主将)ら6名の2年生の活躍が光った。
1994年、学校法人立命館と合併し、立命館宇治高等学校となり、毎年卒部生の中から大学硬式野球部で活躍する者が出てきた。その代表的な存在は立命館宇治1期生・小川裕介であり、史上初めてドラフト1位でオリックスに入団。
1998年、当時・立命館大学コーチであった宮田善久が監督就任。2000年秋に19年ぶりの近畿大会出場を果たし、2001年夏に準優勝するなど新たな歴史を構築した。
2002年春より、宮田監督の大学時代の2年後輩にあたる貝塚茂夫(法政大~いすゞ自動車)が監督の座を受け継ぎ、同年夏に準優勝。
03年秋には藤原主将(立命館大~大阪ガス)を中心に堅守で勝ち進み、22年ぶり2度目の京都大会を制覇。続く近畿大会(秋季は4度目)では片桐(奈良3位)、報徳学園(兵庫2位)破り、ベスト4進出。
この成績をもとに、翌春には創部史上初のセンバツ出場を勝ち得た。
07年春には北嵯峨~鳥羽で8度の甲子園出場実績のある卯瀧逸夫監督を招聘。その3年後には2度目の、さらに5年後には3度目のセンバツ出場を成し遂げた。
教え子には金子侑司(立命館大~埼玉西武ライオンズ)がいる。
卯瀧監督は15年夏の準優勝を最後に勇退し、卯瀧監督の鳥羽時代の教え子でこの9年間コーチを務めてきた里井祥吾へバトンタッチ。
里井監督は就任1年目の夏にベスト4へ進出。2年目こそ4回戦敗退に終わったが、3年目の100回大会では準優勝。そして4年目の101回大会では激戦ブロックで東山、福知山成美、龍谷大平安、京都国際と接戦を勝ち抜き、37年ぶり3度目の夏の甲子園出場を果たした。
甲子園では1回戦・秋田中央に1-0で守り勝ち、甲子園1勝という新たな歴史を刻んだ。
設立年月日 | 1969年 月 |
---|