冨田康祐
トミタ コウスケ
2016年 7月 - 2016年11月
2016年7月22日、約5年ぶりとなる香川オリーブガイナーズへの復帰が発表された。香川では主にリリーフとして後期34試合中29試合に登板、監督の西田真二やコーチの伊藤秀範は、冨田が加わったことでリリーフ陣が強化され、後期優勝を争う上で力になったと評した。後の報道では台湾で引退を決意したものの、西田から「おまえの経験を若手に還元してくれ」と声をかけられて香川に復帰したという。11月12日の12球団合同トライアウトに参加し、1安打1四球(1人はゴロに打ち取ったが失策出塁)という内容だった。11月30日、香川を退団することが発表された。
2015年 12月 - 2016年1月
12月から1月にオーストラリアのリーグ(ABL)「メルボルン・エイシズ 」に短期参加。
2015年 1月 - 2016年1月
2015年1月14日にMLBのテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結ぶ。ショートシーズンA級スポケーン・インディアンス(Spokane Indians、ノースウェストリーグ)所属の投手として臨んだリーグ戦では、オール中継ぎで17試合へ登板すると、勝敗は付かなかったものの2セーブ、防御率4.71という成績を残した。しかし、2016年1月13日に、球団から契約を解除された。
2016年 4月 - 2016年
2016年4月から、メキシカンリーグの下部リーグであるLiga Norte de MexicoのRojos De Caborcaに所属。
2012年 - 2014年
横浜ベイスターズ時代。2012年には、イースタン・リーグ公式戦10試合に登板。0勝1敗、防御率6.00という成績を残した。チームメイトであったランディ・ルイーズからの誘いをきっかけに、シーズン終了後の11月30日から12月28日まで、プエルトリコのウィンターリーグに参加。
7月29日付で支配下選手契約へ移行するとともに、背番号を68に変更。8月6日の対読売ジャイアンツ 戦(郡山総合運動場開成山野球場)に、救援で一軍デビューを果たした。その一方で、イースタン・リーグ公式戦では、19試合の登板で1勝0敗6セーブ、防御率1.77を記録した。
2014年には、イースタン・リーグ公式戦20試合に登板。0勝2敗4セーブ、防御率3.27という成績を残した。しかし、一軍公式戦への登板機会はなく、10月3日に球団から戦力外通告を受けた。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示。
2011年 1月 - 2011年
四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズに入団。同年は、抑えとしてリーグ戦64試合中48試合に登板。3勝3敗9セーブ、防御率はリーグ2位の1.39をマークし、球団の後期優勝に貢献。リーグの後期MVPに選ばれた[7]。当時、ホームゲームでクローザーとして登板する際にはスタジアムDJ(藤沢翼)から「イッツ トミ タイム!」という登場コールを受けていた。
2011年のNPB育成ドラフト会議で、横浜ベイスターズから1巡目で指名。育成選手として入団した。背番号は111。
2007年 - 2010年
1年時の春からリーグ戦に出場を果たすも、以後は右肘の故障もあり、1部通算7試合の登板で1勝1敗、4年春・2部でも1試合のみに終わった。4年時の2010年秋にプロ志望届を提出したが、同年のNPBドラフト会議では、どの球団からも指名されなかった。
2004年 4月 - 2006年
1年時の秋からベンチ入り。3年時は、前田健太の控え投手兼外野手として第78回選抜高等学校野球大会に出場。8番・中堅手として全試合にスタメン出場。準決勝の清峰高戦では、3番手として登板し1回を無失点に抑えたが、チームは敗退しベスト4に終わる。夏は、大阪大会準々決勝で東大阪大柏原高に敗れ、選手権大会出場は3年間で果たせなかった。