2014年 - 2014年
2013年12月20日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約締結。2014年、招待選手として参加したスプリングトレーニングでは18試合の出場で打率.185、出塁率.290に留まり、AAA級ラウンドロックで開幕。ラウンドロックでは62試合の出場で打率.258、4本塁打、出塁率.340、12盗塁の成績を残し、守備では二塁手として起用される。7月20日に本人の希望で契約を解除し自由契約。
2013年 - 2013年
2013年1月10日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。最低保証金額4万ドル、マイナーで月2万ドル、メジャー40人枠入りすることで年俸75万ドルとなる契約で、通訳ではなく家庭教師がつく契約を自ら希望。スプリングトレーニングに招待選手として参加するが、19試合の出場で打率.229、出塁率.275に留まり、守備でも二塁手の他、遊撃手や三塁手としても起用されるが計7失策を喫して、AAA級フレズノで開幕を迎える。フレズノでは78試合の出場で16失策(内55試合の二塁守備で15失策)を喫し左翼手にコンバートされる。一方で打撃は78試合の出場でリーグ6位の打率.330、出塁率.392、リーグ5位の20盗塁の成績を残し、7月9日にメジャー昇格。同日のニューヨーク・メッツ戦に二番・左翼手でスタメン出場し、日本人選手通算50人目となるメジャーデビューを果たす。同試合では2回に本塁打性の飛球をジャンピングキャッチする好守を見せ、5回にはメジャー初安打となる中堅前安打で出塁し、4万人の観衆からスタンディングオベーションを受けた。以降も左翼手として起用され、4試合連続安打を記録[18]するなど、15試合の出場で打率.267、出塁率.353、2盗塁の成績を残すが、29日にフレズノに降格。降格後も左翼手として起用され、フレズノでは最終的にリーグ3位の打率.329、1本塁打、出塁率.400、22盗塁を記録。9月3日にDFAとなり、翌日に自由契約となる。
1997年 4月 - 1999年
2年時の1998年に第70回選抜高等学校野球大会に出場。3回戦・横浜高校戦で松坂大輔に2安打完封され敗退するが、田中は試合の先頭打者として1安打を放った。第80回全国高等学校野球選手権大会、第81回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが初戦敗退。
1994年 - 1996年
中学硬式野球チーム
1989年 - 1993年
小学校2年で野球を始める。