TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

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稲田直人

イナダ ナオト

最終スポーツ歴 北海道日本ハムファイターズ(野球) 生年月日 1979年11月6日
身長 ---cm 体重 ---kg
出身地 広島県廿日市市
投/打 右/左
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スポーツ歴

北海道日本ハムファイターズ 野球

2022年 - 2023年

ファーム内野守備走塁コーチ

2022年;一軍内野守備コーチ
2023年:ファーム内野守備走塁コーチ

東北楽天ゴールデンイーグルス 野球

2012年 - 2012年

内野手

2011年12月8日に川島亮・加藤大輔・定岡卓摩と共に入団会見を行った。背番号は0。 しかし、2012年は一軍では2試合のみの出場に終わり、シーズン終了後の11月4日、戦力外通告を受けた。同年11月17日、現役引退を発表。

横浜DeNAベイスターズ 野球

2010年 - 2011年

内野手

「横浜ベイスターズ」時代

 

2010年は開幕一軍メンバーに入るものの、22試合の出場に留まった。オフに背番号を00に変更した。

2011年は左の代打や、ブレット・ハーパーの守備固めとして起用された。7月10日の中日ドラゴンズ戦では代打で決勝適時打を打ち、三浦大輔のシーズン初勝利を演出した。一軍で61試合に出場したが、10月9日に球団から戦力外通告を受けた。 その後、12月6日に東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表。

北海道日本ハムファイターズ 野球

2004年 - 2009年

内野手

入団当初は金子誠を脅かす即戦力として期待されたが、2004年・2005年ともに一軍出場なし。二軍(イースタン・リーグ)では打率.273(2005年)を残したほか、遊撃手のみでは活躍の場が得られないとして、二塁手を中心に内野の4ポジション全てで起用された。

2006年6月18日に一軍初出場を果たし、同年7月1日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)では、プロ初打席で二塁打を放った。7月9日の対西武ライオンズ戦(インボイスSEIBUドーム)では三塁手として初先発起用され、以降はホセ・マシーアス・飯山裕志との併用で出場する機会も増え、8月以降は三塁手としてはチーム最多の19試合に先発、日本シリーズも指名打者制のある札幌ドームでの試合では全試合でスタメンを勝ち取り、第5戦では川上憲伸から反撃の突破口となる二塁打を放ち、その後同点のホームを踏んでいる。

2007年は開幕から一軍入りし、一塁手・三塁手、または代打で起用された。9月からは一塁手のレギュラーとして起用され、ポストシーズンでも10試合中8試合に先発出場。先発でない試合でもベンチでムードメーカーとしての役割を果たし、一軍に定着した。

2008年も開幕を一軍で迎えるが、死球による手の骨折で離脱。復帰後もベンチを暖めることが多かった。打率が低迷する時期が長かったが、6月17日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)でスタメン起用されると猛打賞を記録し、故郷に錦を飾った。

2009年は一塁に髙橋信二、三塁に小谷野栄一が定着したために出場機会が減少するが、試合終盤の守備要員で起用されるだけでなく、8月6日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)では9回表に決勝適時打を放つなど、代打の打率が4割を超える活躍を見せた。同年11月25日、加藤武治・松家卓弘・関口雄大との交換トレードで、坂元弥太郎・松山傑と共に横浜ベイスターズへ移籍した。背番号は32。

JFE西日本硬式野球部 野球

2002年 - 2003年

内野手

社会人野球のNKKへ入団。先頭打者として第73回都市対抗野球大会ベスト8進出に貢献し、若獅子賞を獲得した。その後、日本鋼管(NKK)と川崎製鉄との経営統合によってJFEスチールが発足し、野球部も統合されJFE西日本となった後も、そちらに移籍しプレーを続け、2003年の第74回都市対抗野球大会では1回戦で敗退したが遊撃手としての守備力が買われ、同年秋のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズに5巡目で指名され、入団。駒大の先輩にあたる武田とプロで再びチームメイトとなった。

駒澤大学硬式野球部 野球

1998年 4月 - 2001年

内野手

1年次からレギュラーを務め、4年秋に大学日本一となった。東都大学リーグ通算88試合出場、294打数73安打、打率.248、0本塁打、21打点。駒大では同期の前田大輔や川岸強の他に、3学年先輩に新井貴浩、1学年先輩に武田久、1学年後輩に同郷で同じく内野を守った梵英心、2学年後輩に古谷拓哉、3学年後輩に服部泰卓がいた。

広陵高等学校硬式野球部 野球

1995年 4月 - 1997年

内野手

入学後は遊撃手に転向。2年次の夏からレギュラーとなり、秋季は中国地区大会にも進出したが、準々決勝で敗れた。3年夏の全国高等学校野球選手権広島大会では3回戦で瀬戸内高校に敗れている。

野球

1992年 - 1994年

中学までは投手をやっていた。後にプロでチームメイトになる3学年上の二岡智宏が骨折しても尚、監督に叱られながらブルペンで投げ続ける姿に衝撃を受け、広陵高校に入学を決意する。

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