TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

PLAYERS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

※ 新規登録と情報の変更申請はこちら

14 又吉克樹

マタヨシ カツキ

投手

現在の所属 福岡ソフトバンクホークス(野球) 生年月日 1990年11月4日
身長 181cm 体重 74kg
投/打 投/打
出身地 沖縄浦添市
出身小学校 浦添市立浦添小学校
出身中学校 浦添市立浦添中学校
もっと見る

スポーツ歴

福岡ソフトバンクホークス 野球

2022年 - 現在

投手

2021年12月17日に福岡ソフトバンクホークスが獲得を発表した。背番号は14。4年契約であり、出来高払いを含めた推定総額は6億5000万円。『独立リーグ出身者のFA権行使による移籍』はNPB史上初となった。

2022年1月26日に新型コロナウイルス陽性判定を受け、春季キャンプをC組でスタートしたものの、2月19日にA組に合流。開幕を一軍で迎えると、初登板→初ホールド→初勝利→初セーブと開幕から4登板連続で“移籍後初”を記録した。セットアッパーとして活躍し、7月6日にはファン投票で2年連続3度目となるオールスターに選出されたが、同8日の北海道日本ハムファイターズ戦の9回表に登板し、先頭打者・石井一成に一二塁間への打球(結果は右安打)を打たれ、一塁へのベースカバーに向かった際に右足を痛め、わずか1球で緊急降板。翌9日に出場選手登録を抹消され、検査の結果、右足の『リスフラン関節損傷・内側楔状骨骨折・舟状骨骨折』と診断され、復帰まで3か月前後を要する見込みであり、オールスターも出場辞退となった。レギュラーシーズン中の復帰は果たせず、この年は31試合に登板し、3勝3敗14ホールド1セーブ・防御率2.10という成績であった。CSファイナルステージ期間中の10月14日に出場選手登録されたが、登板は見送られた。オフに現状維持となる推定年俸1億5000万円で契約を更改した。

2023年も開幕を一軍で迎え、開幕から5試合連続無失点を記録していたが、4月18日の埼玉西武ライオンズ戦では1点ビハインドの5回裏、一死二・三塁から登板して外崎修汰に3点本塁打を被弾。その後二死一塁としてマーク・ペイトンにも2点本塁打を被弾し、この登板を最後に同22日に出場選手登録を抹消された。二軍でもなかなか調子が安定しなかったが、大阪遠征中の6月5・6日の二夜にわたって小久保裕紀二軍監督に相談を持ちかけ、小久保の現役時代の経験談を聞いて「こうなったら33にして、150km/hを目指します」と決意し、体を大きくひねるトルネード投法に変更。さらに体重も増量し、7月25日に出場選手登録され、8月26日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦では151km/hを計測するなど、圧巻の投球を続け、再昇格後は26試合の登板中、失点を喫したのは3試合のみ。この年は32試合の登板で2勝2敗10ホールド・防御率2.25という成績を残し、ポストシーズン終了まで一軍に帯同すると、ロッテとのCSファーストステージ第3戦でポストシーズン初登板を果たした。

 

【節目の記録】
・150ホールド:2022年4月26日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(福岡PayPayドーム)、8回表に4番手で救援登板、1回無失点 ※史上9人目

中日ドラゴンズ 野球

2014年 - 2021年

投手

<記録・NPB>
【初記録】
(投手記録)
・初登板:2014年3月29日、対広島東洋カープ2回戦(ナゴヤドーム)、7回表に2番手で救援登板、2回無失点
・初奪三振:同上、7回表に石原慶幸から空振り三振
・初ホールド:2014年4月6日、対読売ジャイアンツ3回戦(ナゴヤドーム)、8回表に2番手で救援登板、1回無失点
・初勝利:2014年4月17日、対横浜DeNAベイスターズ3回戦(ナゴヤドーム)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点
・初セーブ:2014年8月17日、対東京ヤクルトスワローズ18回戦(ナゴヤドーム)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点
・初先発登板:2017年4月13日、対東京ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、8回2失点で勝敗つかず
・初先発勝利:2017年4月27日、対東京ヤクルトスワローズ5回戦(ナゴヤドーム)、7回無失点3奪三振
・初完投勝利・初完封勝利:2017年6月6日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(ZOZOマリンスタジアム)、9回4安打8奪三振

 

(打撃記録)
・初打席・初安打:2014年5月20日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(札幌ドーム)、7回表に石井裕也から中前安打
・初打点:2017年4月13日、対東京ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、2回表にデビッド・ブキャナンから三塁適時内野安打

 

【節目の記録】
・100ホールド:2018年8月9日、対広島東洋カープ18回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、10回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上30人目

 

【その他の記録】
オールスターゲーム出場:2回(2017年、2021年)※2022年も選出されたが怪我のため出場辞退

香川オリーブガイナーズ 野球

2013年 - 2013年

投手

2013年、前期は5月度の『月間グラゼニ賞』を受賞するなど、12試合・80回2/3を投げて7勝1敗・防御率1.34と好成績を収め、前期MVPを獲得した。前期の優勝争いが佳境にあった6月22日の高知ファイティングドッグス戦では、8回二死まで走者を1人も出さず、1安打無四球という内容で9回無失点。島袋翔伍のサヨナラ本塁打で勝利投手になり、チームの前期優勝を引き寄せた。

後期は本人が「後半戦に関して言えば、その器(キャパシティ)がちょっと溢れてきていたのかもしれません」と話したように、やや調子を落としたものの、9月度の月間MVPを受賞。シーズン全体では24試合・131回1/3を投げ、13勝4敗・防御率1.64の好成績で最多勝のタイトルを獲得した他、『年間グラゼニ賞』と投手部門の年間ベストナインも獲得した。独立リーグ時代の最速は148km/h。

10月25日に開催されたNPBドラフト会議にて、中日ドラゴンズから2位指名を受け、11月22日に契約金6000万円、年俸840万円(いずれも金額は推定)で仮契約した。背番号は16。独立リーグの選手が2位指名を受けるのは当時史上最高であった。

IPU・環太平洋大学硬式野球部 野球

2009年 - 2012年

投手

入学して間もない5月、戦力として計算していたサイドスローの投手が故障し、田村忠義監督が「サイドで放れるヤツおるか?」と部員たちに聞いて回っていた。そこで又吉は手を挙げ、当初は「まだ大事な試合で使えるレベルやないな」という評価であったが、現役時代はサイドスローだった田村監督の指導を受けると、1年秋に最速138km/hを計測。2年春のリーグ戦後に田村が退任したものの、2年秋にはチーム史上初の全国大会となる明治神宮大会出場へ導いた。大学進学後も体は成長を続けて身長180cmに達し、4年秋には最速144km/hを計測。依然として教員志望であったが、田村の後任である堀田一彦監督から「独立リーグで野球を続けないか?」と提案され、「それでダメなら教師への道を進もうと。父からも『若いうちにしかできないことがある』と背中を押してもらえたので」と2年以内という期限を設け、独立リーグ挑戦を決断した。四国アイランドリーグplusのトライアウトを受験し、二次試験を免除される特別合格者(10人)の1人に選ばれ、その後香川オリーブガイナーズからドラフト3位指名を受けた。背番号は21。

沖縄県立西原高等学校硬式野球部 野球

2006年 - 2008年

投手

入学時点では身長158cm・体重40kgと非常に小柄で、部内では「マメ」のあだ名をつけられるほどだったが、月日が経つにつれ、体が少しずつ成長。1年冬に上原健監督から投手経験の有無を問われ、「あります」と嘘をついたものの、これを機に打撃投手を務めるようになり、球数が多いため、楽にストライクを投げようとした結果、自然とサイドスローになった。2年時には、強豪校の水に合わなかった島井が西原高校に転校し、再びチームメイトとなった。2年秋、チームは下級生の投手に故障が相次ぎ、島井は転校後1年間公式戦出場不可の規定があり、投手不足のために投手転向が決定。3年夏になると、身長は172cmまで伸び、県大会では背番号10で2試合に登板したが、チームは2回戦で敗退した。高校時代の最速は117km/h。

高校卒業後は「僕は体育教諭になって野球部の監督になりたかったんです。大学に進んだのもそのためでしたし、野球部に入ったのも将来、練習メニューを考えるのに役に立つと思ったからなんです」と環太平洋大学へ進学した。

野球

2003年 - 2005年

浦添市立浦添中学校軟式野球部

守備位置はセカンドであったが、チームメイトであった島井寛仁も「試合に出た姿をほとんど見てない」と語ったように、中学時代は試合に出ることすらできなかった。

仲間ジャイアンツ 野球

1997年 - 2002年

浦添市立浦添小学校1年生のときに『仲間ジャイアンツ』で野球を始めた。

もっと見る