福嶋 久晃
フクシマ ヒサアキ
PL学園を経て大昭和製紙から大洋ホエールズに入団。広島カープに2年横浜大洋ホエールズコーチで3年。
オールスター3回出場、1000試合、生涯盗塁阻止率6割以上1位、選手19年コーチ4年古葉野球を学ぶ。
現在の所属 | 関西高等学校硬式野球部(野球) | 生年月日 | 1947年4月10日 |
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身長 | 177cm | 体重 | 78kg |
出身地 | 和歌山県東牟婁郡太地町 | ||
投/打 | 右/右 |
1967年 - 1984年
大洋ホエールズ(1967-1977)ー横浜大洋ホエールズ(1978-1984)時代。1967年9月7日の巨人戦(川崎)で初出場。二軍では1968年のイースタン・リーグ優勝に貢献し、1969年には打率.339でイースタン・リーグ首位打者を獲得。1970年には伊藤勲、大橋勲に次ぐ三番手捕手として一軍に定着。同年は打力を活かし、一/三塁手として15試合に先発出場(捕手としては1試合のみ)。1972年に名前を「久」から「久晃」に変更した。1975年には正捕手の伊藤と併用され62試合に先発マスクを被る。同年は10本塁打を放ち、それ以降6年連続で2桁本塁打をマークする。別当薫が2期目の監督に就任した1977年には伊藤から正捕手の座を奪い、翌1978年にはキャリア唯一の規定打席(36位、打率.249)に達する。同年4月5日の広島戦では横浜スタジアムこけら落としのチーム第1号本塁打を北別府学から放ち、1980年4月5日には開幕戦の巨人戦(横浜)で江川卓からサヨナラヒットを打った。1976年、1977年、1981年にはオールスターゲームに出場。1982年からは辻恭彦・加藤俊夫との併用になったが、1983年からは若菜嘉晴の加入で出場機会が減少し、1984年には一塁での起用が主となる。
1966年 - 1966年
1965年のプロ野球ドラフト会議で広島カープから8位指名を受けるも拒否、社会人野球の大昭和製紙に入団。1966年の都市対抗野球に出場し、準決勝で住友金属に敗退。
1963年 4月 - 1965年8月
PL学園11期生。3年時の1965年、2年生エースの加藤英治を擁して1965年の第37回選抜高等学校野球大会に出場。同期の福嶋久晃・得津高宏とクリーンナップ(4/7番捕手)を組むが、準々決勝で高松商に敗退。同年夏は府予選準決勝で福本豊のいた大鉄高に敗退。同年のドラフトで広島から8位位指名受けるも拒否。