TEAMS FILE- キズナ繋がれ!みんなのチーム名鑑 -

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福嶋 久晃

フクシマ ヒサアキ

PL学園を経て大昭和製紙から大洋ホエールズに入団。広島カープに2年横浜大洋ホエールズコーチで3年。
オールスター3回出場、1000試合、生涯盗塁阻止率6割以上1位、選手19年コーチ4年古葉野球を学ぶ。

現在の所属 関西高等学校硬式野球部(野球) 生年月日 1947年4月10日
身長 177cm 体重 78kg
出身地 和歌山県東牟婁郡太地町
投/打 右/右
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セカンドキャリア

マネジメント会社インタープレイス株式会社の代表取締役会長(娘である福島晃子・浩子姉妹所属)。介介護用品レンタル会社デァーハート代表。2009年設立の株式会社エバーケアは介護用品特殊排泄処理装置総販売元社長。

スポーツ歴

関西高等学校硬式野球部 野球

2017年 - 現在

2016年にアマチュア野球指導資格を回復し、岡山県の関西高等学校でコーチを務めている[。

横浜DeNAベイスターズ 野球

1987年 - 1989年

旧:横浜大洋ホエールズ時代。古葉竹識が監督に就任したのを期に大洋へ復帰。一軍バッテリーコーチを務めた。

広島東洋カープ 野球

1986年 - 1986年

二軍バッテリーコーチ補佐

広島東洋カープ 野球

1985年 - 1985年

1985年に広島へ移籍し、開幕戦の阪神戦(広島市民)で山本和行からサヨナラヒットを放つなど右の代打としても活躍したが、同年限りで現役を引退。

横浜DeNAベイスターズ 野球

1967年 - 1984年

大洋ホエールズ(1967-1977)ー横浜大洋ホエールズ(1978-1984)時代。1967年9月7日の巨人戦(川崎)で初出場。二軍では1968年のイースタン・リーグ優勝に貢献し、1969年には打率.339でイースタン・リーグ首位打者を獲得。1970年には伊藤勲、大橋勲に次ぐ三番手捕手として一軍に定着。同年は打力を活かし、一/三塁手として15試合に先発出場(捕手としては1試合のみ)。1972年に名前を「久」から「久晃」に変更した。1975年には正捕手の伊藤と併用され62試合に先発マスクを被る。同年は10本塁打を放ち、それ以降6年連続で2桁本塁打をマークする。別当薫が2期目の監督に就任した1977年には伊藤から正捕手の座を奪い、翌1978年にはキャリア唯一の規定打席(36位、打率.249)に達する。同年4月5日の広島戦では横浜スタジアムこけら落としのチーム第1号本塁打を北別府学から放ち、1980年4月5日には開幕戦の巨人戦(横浜)で江川卓からサヨナラヒットを打った。1976年、1977年、1981年にはオールスターゲームに出場。1982年からは辻恭彦・加藤俊夫との併用になったが、1983年からは若菜嘉晴の加入で出場機会が減少し、1984年には一塁での起用が主となる。

野球

1966年 - 1966年

1965年のプロ野球ドラフト会議で広島カープから8位指名を受けるも拒否、社会人野球の大昭和製紙に入団。1966年の都市対抗野球に出場し、準決勝で住友金属に敗退。

PL学園高等学校硬式野球部 野球

1963年 4月 - 1965年8月

PL学園11期生。3年時の1965年、2年生エースの加藤英治を擁して1965年の第37回選抜高等学校野球大会に出場。同期の福嶋久晃・得津高宏とクリーンナップ(4/7番捕手)を組むが、準々決勝で高松商に敗退。同年夏は府予選準決勝で福本豊のいた大鉄高に敗退。同年のドラフトで広島から8位位指名受けるも拒否。

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